(flaming)ある芸人ブログ「炎上」に思う

  • キングコング西野のブログ「西野公論」(コメント欄無し)での発言をめぐって、2ちゃんねるを中心に批判、非難が殺到している。西野のブログに直接抗議が書けるわけではないので、西野が毎日書いているのは「ブログ形式のコラム」なのだが、間接的にネット上でフレーミングが起こっている。なぜこれがフレーミングなのかと言えば、西野が2ちゃんねるの中で殺到している非難に対して、明らかに「批判」していると思われる記述があるからだ。非難合戦は、「炎上」を増幅させる。ネタ担当の西野は、自信過剰と言うか、若くしてプライドが肥大化していると言うか、ブログでの書きぶりは勘違い発言の連発である。「芸人なのに、自分たちを好意的に思う人を減らしたいのか」とさえ私は思った。非難する多くの「2ちゃんねらー」と、「信者」と思しき擁護派との「乱闘」は終息に向かいつつあるが、こんな騒ぎを起こすこのコンビに対して、仕事が減る理由にはなっても、増える理由にはならないだろう。
  • 以前から、このコンビは二人揃って精神的な不安定さが目立っていた。例えばM-1決勝のように、ネタ全体や一つ一つのオチの内容にも精神的な幼さが目立つ。小学生が考えそうな言葉の言い間違いで笑いを取ろうと畳みかける。ネタづくりは西野が受け持っているそうなので、これは西野という芸人の幼さでもあるのだろう。あるいは、今まで「子ども」(精神的なものも含めて)相手にお笑いをやってきた「ツケ」が回ってきたのかもしれない。
  • その点、「若手にしてベテラン」のサンドウィッチマントータルテンボスは好対照だった。特にサンドウィッチマンの漫才台本の練られ具合は、落語の下げを思わせた。久々に現れた「大人が笑える若手漫才師」の誕生だった。この数年、アクションだけで笑いを取ろうとする芸人がテレビに溢れているので、サンドのインパクトは尚更だった。その誕生の場に出された、西野の子供狙いの台本は痛々しいものがあった。彼の方向性はまさに、今まで流行っていた「小学生が笑える芸」だった。いわば「漫才台本としてのおっぱっぴー」だったのだ。「ネタ見せの前」の梶原の円形脱毛症披露は、その痛々しさを増幅させた。そしてネットユーザーは気づいた、西野はブログで昔から「痛い」内容を連発していたという事実を。「痛さ」は今回だけではなかったということを。ここから「西野批判」が一気に発火した。
  • 以前も書いたが、私はM-1でのキングコングのネタを決して面白いとは思わなかったし、そもそも今まで、出始めた頃以上の面白さを感じたことがない。特に東京で、セットに数千万の大金を投じたバラエティー番組にレギュラー出演するようになってからは、ますます芸人自身から出る笑いの放出が無くなり、彼らに関心を持つことさえなくなった。東京キー局のバラエティー番組のギャラは、関西ローカルとは桁違いに良いと聞く。「勘違い」を彼らの責任にのみ帰するのは酷な気もする。あの番組のファンにとっては彼らは人気者なのだろうが、関西で吉本の番組を見ている人でさえ、ダウンタウンやナイナイとは異なり、彼らは「消えてしまった芸人」ではないだろうか。もちろん、芸人がどう生きるかは自由だ。売れなくなるのも自由だろう。でもそれではあまりにファンが可哀想ではないか。自分が漫才師であり、ネタで勝負する芸人だと豪語するなら、今の売り方を抜本的に見直す時期が来ていると私は思った。