6月13日の書き込みに付いたコメントを見て

  • 「倫理的な疑問」という話は、ふだんそういう思考に接していない人が読めば「絵空事」や「空想的」にしか聞こえないんだなぁ、と再確認。「効果的な防犯」に気を取られて、「あらゆる犯罪は犯人が悪い。犯人(と後になる人間)が犯行しさえしなれば、犯罪もない」という大原則があやふやになって、被害者に過大な負担をかけていませんか、と問いかけているのだが、もうそういう問いかけすら「空想」なのだろうか。13日にも書いたが、「女性は一人でどんどん夜道を歩け」という話をしているのではない。
  • 自殺した前農水大臣が「今どき水道水を飲む人はいない」と言ったが、日本中がまさに彼のような認識になっているのだろうか。「勝手に」水が不味くなったのではなく、「誰かが」水を不味くしたのである。なぜ水道代を「支払っている」側が「浄水器」の費用を負担するのか。というのは、もはや世間では「疑問」ですらないのだろうか。昨日、大気汚染の訴訟で和解勧告が出たが、あれも「勝手に」空気が人体に悪影響を与えるようになったのではなく、「誰かが」悪影響を与える空気にしてしまったのだ。その空気を吸って喘息になった患者がどうして自分で医療費を払わねばならないのか、という疑問もまた「空想的」なのか。
  • 社保庁問題を世間では「消えた年金5000万件」というらしいが、あれも「消した」「消された」5000万件と言うべきである。「勝手に」消えたのではない。「誰かが」消したのである。誰かが消さなければ消えなかった記録である。一体何万人いるかも分からない多くの被害者に向かって、「国民年金などというものに加入している貴方が悪い」という論理は、「被害者批判」の典型である。
  • 「被害者批判」の論理は、日本では「新自由主義」の政治的影響力が強まってから、徐々に増えてきたと言って良い。この思考は「自己責任論」とセットになっている。そもそも「自己責任論」とは、責任概念について正面からの検討を放棄している「無責任」な議論なのだが(それは後日に触れたい)、この議論に共鳴する学生が以前よりも増えている感じがする。この実感は、私が参加している研究会の先生方にも共通である。