(雑感)「自分の眼に映ったものがすべて」の人々

  • 昨日のTVに関する書き込みを読んでみて、ふと十数年前の自分を思い出した。学部生の頃、サークルの新歓スローガンで「ニュースじゃ見えない、人間社会」というのを作ったことがある。時代は1990年代初頭だったが、当時はインターネット自体が、市民の中に全く普及していなかった。今ではテレビだけでなく、PCや携帯の「ニュース」だけを見て、それが世の中で起こっていることのすべてだと見なして生活する若者が増えていることだろう。目に映るものがすべてであって、目に映らなければ存在していないのと同じ。存在していないのだから、自分の目に映ったことだけで事の善悪を判断してしまう。なんて恐ろしい話なのだろうと思う。
  • 以前、大学での講義中にこんなことがあった。大学の貸し出しノートPC(パワーポイント上映用)がトラブルを起こしたので事務室の職員を内線電話で呼び、修理をしてもらった。結局、その貸し出しPCは治らずお釈迦になったのだが、代わりのPCを持ってきてもらった。いちいち書くまでもないが、私はPCを借りに行くときも返しに行くときも、事務室へ挨拶に行き(社会人として当たり前だ)、この種のトラブルがあったときは帰りに御礼も言っている(当たり前だ)。しかし、教室内では事務室の職員に「ありがとうございました」と御礼は言わない。というのも、私には「学生に迷惑をかけているのは私と事務室であり、お詫びを言うべきは学生に対してであって、貴重な講義時間を使ってしまっているのに学生の前で事務室職員に礼を言っている場合ではない」と考えていたからだ。私なりの一種のポリシーだった。
  • ところがなんと、その講義後の感想文に「なぜ先生は職員に御礼を言わないのか」というものがあった。驚いた。学生の見えるところで御礼を言わなければ、私は事務室に御礼自体をしていない、と学生が思っていたことに驚いた。どうして意見する前にせめて「先生は職員に御礼を言った(今後言う)のかどうか」と尋ねないのだろう。事実確認をしてからでも遅くはないだろうに。私はこの件については釈明の必要はないと考え、最終日まで特に弁明をしなかったのだが、最終日の無記名「授業評価アンケート」に、この件を根拠としていると思しき、私への非難を数件見つけた。まだ数名が思っていたのだ、私は「人に御礼も言わない、人間的に問題のある男」なのだと!
  • 「私は常識的な行為をしていますよ〜!」と声を大にして言わなければ、一部の他者は想像してくれないどころか、然るべき行為を為さない悪者だと断定してしまう。私は政治家じゃないので、有権者(学生)によく見られるためのパフォーマンスの必要はないと考えていたが、大学講師という立場も政治家と似たような立場になってきたのだろうか。学生の前で「学生に優しい、思いやりのある良い先生」を演じれば、学生は額面通り受け取ってくれるのだろうか。人間って、そんなに薄っぺらいものなのだろうか。