(1/23)今年度最後の三重短

  • 14回の講義も今日で終わり。ラストでしくじると「次」が無いだけに、沢山の内容をするわけでもないのに毎年緊張する。今回の資料は、センの思想で日本の男女共同参画の思想を検討するという、私が先日脱稿した小論。
  • 私の方から講義全体の感想を述べ、学生には最後に私が企画した「討論会」に参加してもらった。テーマは「現代女性の地位は男性と対等か」。イエスとノーに分かれて座ってもらうため、学生の目にはその差に眼が奪われがちになるが、私が気にしていたのは、学生が述べる「理由」の内容だった。「地位の対等」をテーマにしたのは、「地位」を根拠づけているものを何に求めるか、どの側面を見て「対等」と判断するか、という意味があったからだ。「法が平等を定めているのだから対等だろう」「いや、現実は平等でない事例がいくつもある」「しかし昔に比べれば随分対等になった」「その理由では、今も対等でない事例が残っているということではないか」などなど。「平等って何だ、対等って何だ」を考え、自分の口で発表してもらうだけでも、必ず本人がその問題について考えようというきっかけになるのは間違いない。もし「対等でない」と思っていた学生が、「対等だ」という学生の理由を聞いて信念を変えたとしても、それは全然構わないと考えている。信念を変えても現実が変化するわけではない。自分の所持金を「大金」と思おうが、あるいは「はした金」と思おうが、思いを変えただけで財布に入っている金額が変わるわけではない。「対等」だと称されている、その現実の内部に接していけば、また本人の考えも色んな方向へ変化していくだろう。大事なことは「その事について考えた」ということだ。これはやはり大学でしか経験できないことだと思う。
  • 主に未成年の学生たちにこのようなことを「考えよ」と指示するのは、「有権者教育」という意味もある。彼女ら彼らが二十歳になった時、現在の問題意識レベルで本当に選挙に行くのだろうか、と心配になるからだ。「テレビに出ている」「地元の有力者に頼まれた」というのではなく、候補者本人の実績、政策、支持政党の方向性、実績などを吟味することができるのだろうか。私はいつもそのことが気になっている。
  • 最終日の感想文をパラパラと読む。私の講義が終わることを残念がり、寂しがる学生が数名。感謝。私の講義がおそらく、まったく体験したことのない世界だったのだろう。そして多分、学生らは今後、こういう体験をすることはほとんど無いはずである。私のやり方は、講師の準備が大変だからだ。(あ、そうそう、「このブログを読んでいる」という感想を書いた学生もいた。読者大歓迎。そもそも全世界に公開している設定なのだから、世界中の誰に読まれていようが、私が文句を言う権限はない)
  • 思い出されるのは、ある日の講義の最後、学生がおもむろに一冊の本を出してきて、「先生、サインを下さい」と言ってきたことだ。目の前にあったのは私が以前共著で参加させて頂いた『ジェンダー史的唯物論』だった。どこで入手してきたのか、よくまだ売っていたものだ。私は他の学生の目もあるので「著者と読者の握手」もできずに、サインペンでサインをささっと書き、学生に返した。この本で書いた論文は正直言って、私がそのテーマで書こうとした「序章」に過ぎない。今も資料収集は続けているが、執筆・発表の機会もないまま現在に至っている。理由としては「バッシング」サイドの勢力が弱まっていることもある。
  • 今回の津への往復は、自腹で近鉄特急を使った。帰り、なぜか窓際の私の隣、通路側に先客が。最初は間違えているのかと思ったが、どうもその客は名古屋からその場所を買っているのだ。他はガラガラなのに、どうしてか私は、べちゃべちゃ喋るか、ものを食べるか、寝るかの三つの動作を繰り返す「大阪のおばちゃん」とカップルのようにして、難波へ帰る羽目になった。こういう日は、指定券料金がバカ高く思われる。
  • 難波のビックカメラでPC用プリンターの物色。モノクロレーザーに心が動く。ごてごてと機能が付いたカラーのインクジェットよりも本体が安い。何より色のノリがきめ細かく、A4一枚あたりのランニングコストも遜色ない。しかし私が目を付けた機種が、京都のビックよりも三千円以上も高いのはどういう訳だ。私が以前買ったデジカメもそうだが、同じビックでも京都の方が断然安いのは何故だろうか。京都は開店して間もないから、より安くしているのか。普通、土地柄で言えば、京都よりも難波の方が安いと思ってしまうじゃないか。結果、私は難波ビックではサプライ類しか買わなくなっている。今回は安いCD-Rのスピンドルケース入りと、MOを入れるプラケースを買った。(難波のビックさん、何とかして下さい)