(3/7)専門家の論理、読者の論理

  • この準備と合わせて、情報倫理に関する著作もさがした。この分野は大きく分けて二種類に分けられる。一つは「How To」モノと言うべきか、コンピュータやネットについての「べし、べからず」集のようなものである。これはこれで実用性というか、需要があるのだろう。種類も多い。コンピュータ技術者や法学関係者、情報処理研究者が執筆している場合が多い。しかし、それは「倫理書」(道徳書)ではあるかもしれないが、「倫理学」では無い。
  • もう一種は、情報化社会や、ネット環境、コンピュータ・ネットワークをめぐって発生しているアポリアの存在を指摘する研究書である。現実のコンピュータ社会は「べし、べからず」と割り切れるとは限らない。実際は解決不能とも言うべき難問もあり、それらを指摘する著作群である。これらは主に哲学・倫理学系の研究者が受け持っている。ただ、これらの研究書の最大の難点(執筆者にとっては難点でも何でもない、と認識しているだろうが)は、そのアポリアを知った「私たちはどうしたらいいのか」という問いに、何の答えも与えないということだろう。むしろ、アドバイスを与えることは前者の「指南書」の仕事と割り切っているのか、あえてアポリアを列挙していくことに存在意義を見出しているようなものまである。「倫理学的思考」を鍛える練習としては「大変勉強になる」が、「じゃあどうすればいいの?」と答えを求めた読者に対しては厳しい書籍群である。「自分で考えろ」としか言ってくれないから。もっとも、「倫理学」とは安易に答えを求める風潮に対するアンチテーゼのような存在でもあるので、それはそれで良いのかもしれないが、これではますます読者は「How To」に流れていくだけではないか、という不安も感じた。
  • 多分恐らく、「情報倫理学」とか「コンピューター倫理学」といった書籍を求める読者の多くは、「情報分野での倫理学的思考の練習」をすることが目的ではないような気がするのだ。専門家というのは、自分が究めてきた学問分野について著した著作に触れる読者を、ついついその「入門者」とみなしてしまっていないだろうか。その「みなし入門者」にレクチャーするかのように、その学問分野の世界の入り口を開陳しようとするけれども、読者がそれを望んでいなかったとしたら、これほど不幸なことはない。かくして「分かりやすくて」「安い」、HOW TOの指南書に読者を持っていかれてしまうのではないか。
  • 「読者」を「学生」に置き換えれば、私がいくつか受け持っている一般教養の講義でも同じことが言えるだろう。私は哲学や倫理学、論理学はもちろん、ジェンダー論や社会思想まで引き受けている。しかしその研究者にならんとする学生の相手をしたことはほとんど無い。だったら始めから、ある程度思考訓練は求めたとしても、その回答(案)についても提示していって、また学生から意見を求めれば良いのではないか。講義では普通に行われているそういうアプローチを、著作にも適用できないか。最近、そんなことをよく考えている。