(2/4)不思議な世界

  • 北九州市長選と愛知県知事選の投票日。柳沢厚生労働大臣心からの偽り無き本音である「女性は産む機械発言による進退問題の試金石に、勝手にされてしまっている。選挙結果で発言の是非を判断する、というのは一般人の世界では理解しがたい。
  • 投票の結果は「一勝一敗」だったが、そういう評価の仕方も果たしてどうだろう。愛知で予想外の僅差に苦しんだということを見ても、むしろ与党の「壊滅的被害」だった、と言うべきだ。愛知県民にしたって、知らぬ間に柳沢暴言を容認したかのように言われるのは心外だろう。
  • 「柳沢発言」について一言書いておくと、あの発言が「偽り無き本音」なのは先に書いたが、それ以上に「女性は産む機械」という言葉を仮に使わなかったとしても、発言内容全体でも、氏が有権者に対して発言すべき内容では決してなかった。おそらく国の厚生労働官僚たちは、「少子化対策」の文書を作成する際、統計として日本女性何人、うち出産可能年齢女性が何人うんぬん、という数字を念頭に置いて立案するのだろう。そういう視点で分析する人間が全く必要ないとは言わない。たとえば「今年の自殺者は何万何千何百人でした」という数字も、統計を取る担当者なしには出てこない。
  • しかし、それは一般の国民に向かって政治として語るべき話ではない。相手にしている国民は生身の人間一人一人だ。出産時女性の死も、交通事故死も、自殺者も、統計を操る者は「何%減りました、よかったですね」という軽口が出るかもしれないが、死ぬ側や遺族にとっては「いつも100%」だ。失礼極まりない。
  • 統計はすべての個人の営みを数字によって抽象化するが、その抽象化された数字で直に個人を見てはいけない。ある少数民族が人口の0.1%でしかなくても、その人間一人一人は、大民族のそれと何も変わらない。決して「0.1%の存在」ではないのだ。
  • 「女性の出産」も同じである。今回の発言が出産経験者の女性の怒りを呼んだのは、政治家とは思えぬその言葉の「軽さ」に由来するのではないか。出産は国のために、人口を増やすためにやっているのではない。それに、現在の日本社会の「働きながら子どもを産み育てる環境をどう改善するか」、つまり「産みたくなる社会」への視点がおよそ感じられない。厚生労働官僚の作成した文書を丸飲みして喋ってしまったのかもしれないが、統計を知りうる者が一番やってはいけない発言であった。大臣という要職にある者が、その程度の常識を持っていないのであれば、その時点で政治家をやっていてはいけない。