(7/14)ふと思ったこと

  • Aという人物がBという人物に何事かを言い、それを理由にBが激怒した。しかし、Aはその言葉で激怒することを全く予想していなかった。場の雰囲気を収めるためにAはBに謝罪する。
  • こういう光景はよくある。私の場合、Aになることはあるが、Bになることは、現在は無い。「Aが私を怒らせようとしたかどうか」を考え、そうでない場合は「むかつくが、黙っている」ことにしている。なぜなら、「怒る」とは「謝罪せよ」という意味の、相手へのメッセージになるからである。感情と感情表現は区別される。感情表現は非言語的行為になる以上、腹が立ったから即、怒って良いというわけにはいかない。その前にまず、相手に発言の意図を問い質すべきである。その上で謝罪を要求するかどうかを考えるべきである。もっとも、私は「謝ってもらいたい」と思う事象もあまり無い。日本人の謝罪は無責任に何度でも連発できるからである。
  • 思い起こせば、私も昔はよくBになっていたような気がする。相手に謝らせるまで泣き続ける子どもという立場で。子どもは殆どの場合、自分で自分の環境を選択できない。感情の制御も大人より難しいだろう。その意味で「(泣きやむまで)大人が子どもに謝る」という状況はありうる。
  • しかし、それが大人と大人だった場合、どうだろうか。Aという上司はBという部下をなだめるために「頭を下げねばならない」のだろうか。ある発言に相手が怒った場合、その怒りの正当性に客観的な要素は必要ないのだろうか。
  • 一度、学会の研究発表で私の研究発表の内容を批判した大学教授に向かって「その言い方は何だ!」と激怒してその場を蹴って帰宅してみる?できるわけないよね、色んな意味で。