(review-watch)「哲学の歴史」

此の巻はドイツ観念論を中心にした本だが、加藤尚武氏と言う、世評「ヘーゲル研究の第一人者」と称する人物の編集となっている。この人は、何時も、彼の想定する低い次元の読者に向かって、「本当のヘーゲルはそうじゃないんだ」みたいな書きっぷりを続ける人だが、どれもつまらない、の一言に尽きる。ちっとも驚かないし、彼の新発見のように主張する内容は、喩え翻訳でもちゃんと読んでいればすぐに気付くことばかりで、だからどうだと言うのだ、と言いたくなる内容ばかりだ。今回もその例に洩れず、結局は「ヘーゲル」に迫れて居ないと思う。たとえば、ヘーゲルが実は「体系家」ではなく、「アイデアマン」だったというようなはなし。ヘーゲルの主著を読んでみれば、その鋭い直観力から展開される言説、また単なる大学教師からキャリアをスタートさせなかった経緯から、彼が体裁だけを気にする「体系家」ではないことは、普通の読者の一種の常識的な前提になると思う。しかし、「体系」にこだわったことも事実で、それは論の一貫性を求めるが故で、当時にあって珍しいことではない。なんでこんな話にこだわるのかと言いたくなる。過去の講義編纂者を「改竄者」呼ばわりする通弊はマルクスの「ドイツ・イデオロギー」(廣松渉編纂)以来の悪習で、如何にも狭い了見での独善で嫌になる。それと人の翻訳の批評を一方的にここで書くのは、専門家として「精神現象学」ぐらい単独で翻訳してからにしたほうが良いと思う。

  • どうやらレビュー氏は、加藤氏よりは長谷川宏氏を支持する立場のようである。「単独で翻訳」してからでないと他人の翻訳の批評を書かせてもらえない、というのは困った話だが(大多数の研究者は黙っとれ、ということになる)、過去の編纂の問題点を強調するのが必ずしも、「研究の進歩」に貢献しようとする研究者の誠意、とは思われていない場合があることが、このレビューでよく分かった。
  • 「混じりっけ無し100%」と思われていたものが実は混ぜ物だった、というのは、牛乳、米、肉など近年頻繁に起きる事件のパターンである。だから研究者は「本当の混じりっけ無し」は何かと分析して追求しようとする。その成果を告知しようとする。それは研究者の「習性」に近いものかもしれない。それを「如何にも狭い了見」と言われてしまうと身も蓋もない。もっとも、その研究成果は読者が不要と思う情報なのに、研究者が自分の手柄を自慢しているように見えたのなら、それは書き方に問題があるのかもしれない。
  • 私は未読だが、この本は加藤氏(編)なので、執筆の大半は他の研究者によるのではないのだろうか。別に加藤氏の持論に噛み付いても仕方あるまい。このレビュー氏は3570円も支払ってこの本を読んだのだろうか。それだけでも大したものじゃないか。私はカートに入れる気さえなっていない。一度書店で立ち読みしようと思う。