(おもふ)「よみたいもの」と「かきたいもの」、そして「かけるもの」

  • たくさん読んでいれば、百に一つくらいは、確かに「非常に興味深い」論文がある。何度も何度も読みかえして、粗筋を覚えてしまうほどだ。しかし、それが「自分が書きたかった世界」か、と問われると殆どの場合、違う。卑俗な例えだが、「読みたいマンガ」は「書きたいマンガ」というわけではないのと同様だ。私は他の人よりは少ないが、マンガは読む。しかもギャグマンガを愛している。その身を削って、一度きりの爆笑に命を賭ける室内の孤独な作業に、尊敬の念を抱くからだ。(深夜ラジオの元・ハガキ職人であった我が身には「その気持ち、すごくよく分かる!」時がある)
  • そして、千に一つほどは「こんな論文を書いてみたいと思わせる論文」に出会う。私が書いてみたい!と感激する論文には共通点がある。哲学科の者しか通じない「言語」を使わずに、自身の研究成果を開陳するだけの筆力のある論文だ。だが一朝一夕には、そのレベルの論文はとても書けないことに、すぐ気づく。そしておもう(ふ)。「嗚呼、我はいつたい、いつまで『しゆぎやう』をしつづけるのだらう」と。…疲れてるな、寝よう。