(Memo)19日に買った本について

  • 『水』については、以前『論座』の特集記事を読んでいたので問題の概要は知っていたが、やはりこの問題は初等・中等教育に携わる現場の一部教師に広がっているプラグマティズムを指摘しないわけにはいかないだろう。水に日本語が分かってたまるかと思うし、どこに聴覚の器官が、どこに言語を理解する脳があるんだと、すぐ気づきそうなものだ。そういう「とんでも」を振りまく側の責任もあるにはあるが、それを信じて(あるいは信じなくても)子どもに教えてしまう一部教師って何だろうと思う。この著書にも書かれているが、教員となる側に決定的な「科学リテラシー」不足が進行しており、それは相当深刻な段階に達していると認識した。現在「情報リテラシー」にかかわる講義を受け持っている身としては、私に与えられた少ない時間でこの精神をどう伝えるか、考えさせられた。
  • 『哲学』は、高橋氏が教鞭を取られている大学の授業「哲学ディベート」を紙上再現しつつ、話が進められている。今後、文学部以外の学生に倫理や論理を教える科目は、このようなディベート技術を交えた物になっていく可能性が高いだろう。しかし、私学にとってディベートは「少人数講義」という制約を生み出すので、どの大学でも可能というわけにはいかないだろう。どういう形へ変化していくのかは私にも分からない。
  • 『南京』は、ディベートとは必ずしも同じではないが、現代における「論争」や「論理的批判」の一つの典型として読むことができる。しかもこれは「邪馬台国」問題などとは異なり、政治的意図によって論理が生みだされてきた事例である。この著者である笠原氏は長年、「虐殺否定派」を論破する活動を続けてこられたようで、もちろん東中野修道氏の著作にも触れている。この論争を少し調べると、東中野氏らが関連の著作を「量産」しているのかが分かる。ただ、いくつかの「東中野批判」本を見る限り、否定派の敗北はとっくに決定しているように見える。使われている論理があまりにいい加減だからだ。私がもし「否定派」だったら「頼むから黙っていてくれ」とさえ思っただろう。
  • なのになぜ、東中野氏らはどうして多くの著作を世に出しつづけられるのだろうか。やはりそれは残念ながらと言うべきだろうが、日本には一定数、「中国や中国人はウソつきだから信じるな、中国人の言うことは間違いだ」と言って欲しい、と願っている人が確実にいて、溜飲を下げたいその読者が「南京事件」を題材にして自らのカタルシスに利用していると思わざるを得ないのだ。もちろん、逆に中国側の発表を鵜呑みにしている人は、逆の意味で溜飲を下げたいのかもしれないが。もし、歴史の科学的検証の結果にのみ関心がある研究者が、「虐殺は全くなかった」と結論づけるならば、それを私は規制したくない。ただし、それならそれで、同じ科学の土俵で検証し合おうではないか、と誘いたい。ただ、その検証に耐えうるだけの「否定の論理」がこれまで生み出されたことがあっただろうか。
  • 今回買った本は期せずして「論理と倫理」で纏まってしまった。今回の著者は全て大学の教員であり、本の中で批判対象となっている人物も大半は大学の教員である。「大学教員の社会的責任」の大きさについても考えさせられた。