(10/9)例のアレ

  • 東京から戻り日常生活は続く。日曜の学会の共通課題「仕事・職業・労働」についても感想はたくさんあるが、ここに書く時間がない。
  • 月曜は高槻で語学の演習、水曜は三重で社会思想史。学生たちの反応に驚いたり、喜んだりと、有り難いことに充実した講師生活を送らせてもらっている。ストレスがあるとすれば、毎度ながら講義の準備を納得がいくまでやってしまうために、いつも時間が足りなくなること。そして、講義以外では例のアレがストレスの原因。その日が迫っている。まだ4、5日先なのに、すでに胃が痛み、口内炎ができてしまった。締め切りも近いと言うし、逃げるに逃げられない。
  • 話は変わるが今日、木岡教授から池内健次著『カント哲学』(ミネルヴァ書房)という大著をお贈り頂いた。心から感謝。池内氏は御年79歳、東大寺学園時代の木岡教授(当時少年)の恩師である。内容は、「カントの三批判書を一体のものとして読み解き、真の人倫の哲学を探究した」という。約700ページ弱。「はじめに」に、以下のような文章がある。

 カント哲学は二百年間、正しく理解されたとは言い難い、と私は考える。何よりも、カント哲学の核心であり枢要である純粋理性批判の理念が、十分に正しく理解されることなく、まして継承されることはなかった。純粋理性批判とは三批判書の全体だということはわかりやすいことだと思うが、しかし研究者や哲学史家は三批判書の各々を個別に研究し解説するし、一般にこれまで哲学者たちは、三批判書の全体を一つのものとして受け止めるという着想さえも持たなかったようである。三批判書は予備的原理的批判であって理説としての哲学体系でないことはカント学者の誰もが承知しているだろうが、それにもかかわらず、当然のことのように三批判書の内容がそのままカントの哲学理説として解釈されたり非難されたりする。ドイツ観念論や新カント派や現代のカント研究がそのようにカント哲学像を提示し、指導的な哲学者たちでさえもがそれを前提してカントを称揚したり非難したり克服を自称したりしてきた。したがって私は、一つの純粋理性批判ということと批判と理説の弁別ということを、カント理解の要点として敢えて主張せねばならない。そしてこれは本書の論旨の予備的な集約である。

  • 今年の秋は学会発表をしなかったが、来年度の発表に向けて準備を開始しようと決意。どこに何をぶちこんでみるか、その作戦を練っているときが一番楽しい。「発表」なのだから自分が一番モチベーションの沸くテーマを設定したい。
  • その代わりと言ってはなんだが、今秋は論文の投稿届を計三本提出。10月、12月、1月と締切の嵐。全部出せたら、昨年度と併せて計7本。我ながら書くも書いたりとなるが、果たして。