夜、研究会の存在意義について考える

  • ふと、図書館で斜め読みした、ある研究書のことを思い出す。
  • ある地方の研究会のメンバーが集まって書いたというその論集は、基本的な見解の一致さえなく、好き勝手に議論の方向を各自で広げていた。おそらくこの研究会では、満足な討論が為されなかったのだろうと思った。
  • 例えば仮に「現代の日本に住む女性は豊かな暮らしをしている」という命題があるとして、その命題を主張する論者と、その命題に反対する論者が同じ討論の場に会していたなら、やはり互いの論点や根拠を出し合って、互いの誤解や一致点を探る必要があると思う。私のような若造が言う言葉ではないが、討論による認識の深化が研究会の魅力であり、存在意義ではないか。
  • 討論の上で一致した点は両者が論文に書けるとして、一致しなかった点は留保して触れないか、どうしても自分の論文で触れたい場合は、自分がどういう見解だったかの相違点をせめて示すことぐらいはしておかないと、読者を混乱させるだけだ。主張の前提の事実認識からして既に相違があるのに、それを討論で整理することもなくそのままにして、共著として編集・発行してしまうのは、読者不在であり、編集権の放棄ではないだろうか。