香西秀信『反論の技術−その意義と訓練方法−』(明治図書、1995年)55-56ページより

  • 果たして簡単に、人に「詭弁」を教えられるものなのか。論理について研究している者なら一度は言われたことがあるだろう、例の誤解(あるいは嫌味)についてである。

 考えてもいただきたい、詭弁を使って人を騙したり議論に勝ったりすることはそんなに簡単なことなのか。私は断言してもいいが、国語の時間の議論指導程度で、意識的に詭弁を使って議論に勝てるような能力を持った生徒を育てることなど不可能である。もし万が一そういう生徒がいたなら、それは教育の成果ではなく、天賦の才能と個人的「研鑽」によるものに違いない。もちろん、論理的思考力が薄弱なために、議論において誤謬を犯す生徒はいるだろう。あるいは詭弁を用いたがすぐに見破られて恥をかいたという者もいるかもしれない。が、意識的に詭弁が使えるような、しかも簡単に見破られるような類のものではなく、それによって議論に勝つことのできるような高度の詭弁を使いこなせる生徒がもしいたとしたら、その生徒は途轍もない論理的思考力と議論能力の持ち主である。そんな生徒を一人でも育てられたら、それこそ教師冥利に尽きるというものであろう。残念ながら、私にはそういう幸福な経験はない。そしてそれは私だけではないはずだ。要するに、生徒が詭弁を使う心配などまったくする必要はないのである。

  • 必ず一度は言われること。ディベートを教えていると言うと「相手を言い負かすゲームのことだろう」。哲学を勉強していると言うと「(藤村操のように)自殺するんじゃないだろうね」。倫理を学んでいるというと「どこかの宗教団体のことか」。