(5/28)高槻で

  • 今日は高校での仕事。「コミュニケーション・トレーニング」の日である。今日は保護者の方が参観に来られた。そのせいか、全員(補助担当の教諭を含め)のテンションが高め。「クリティカル・リーディング」を中心に行った。
  • 「反論をするための読み」という授業は、かなりの割合で「疑問」の提出を受ける。代表的なものは、「読書は『あら探し』をするのが目的ではない」、などである。ただ、こちらもそれは想定済みで、たとえば以前このブログでも紹介した香西秀信著『反論の技術』でも、その疑問への回答は載せられている。誰も反論しないような意見を言うことを目標にしていては、永遠におのれの議論を鍛えることはできない。本来、「誰も反論の余地がない意見」を生み出すためには、様々な反論に太刀打ちできるような意見を作れる能力を鍛えなければならない。反論ができてこそ、真理に到達する技術を手にすることができる。私もヘーゲル研究者の一人として、弁証法的な「手段としての反論」の有効性に異存はない。
  • もちろん、相手の論理上の欠陥を知ることと、それを相手に言うことは同じではない。別の次元ではあるが、会話にはマナーもあれば、節度もある。「名誉毀損」という罪もある。相手のことを「バカ」や「ブス」だと自分が思ったからといって、それを相手に言うことが許されるはずもない。ネット上には「思ったことは何でも書いて良い」と勘違いしている愚か者が時々いるが、社会的制裁を受けて目を覚ますべきである。
  • ディベートを指導していて大抵出される疑問は「相手を言い負かそうとする子どもにならないか」という疑問である。この件については、香西氏の本にも書いてあったと思うが、高校生がたった数回の授業で相手を言い負かせるほどの技術が身につくわけがない、心配のしすぎである、という答えが有効かと思う。大人の私たち(論理学やディベートを何年も教えている私たち)だって、どんなテーマにでもスラスラと「言い負かす」ことができるわけではない。誤解の無いように念を押すが、もちろんディベートは「相手を言い負かす」ことが目的ではない。自説の説得力を三者納得してもらうための「論理」を鍛えるゲームである。
  • どうも、ディベートを余りご存じない方は、対立する「相手をどうにかしようとする」ゲームだと誤解されるようである。ディベートは極論すれば、反対する相手を「ダシ」に使って、自説の優位を第三者にアピールするところにその面白さがある。もちろん「ゲーム」なので、これで何らかの真理判定をするわけではない。その点も念を押したい。大事なことは、お互いの説得力を鍛えることにある。その意味では勝敗も重要ではない、きわめて友好的なゲームである。