(6/22)被害者批判の罪悪を説く

  • 今日は高槻で生命倫理テキストの講読演習と、女性学の日。生命倫理の方は、昨年と同様のペースで進行中。自ら遂行できない末期患者の自殺幇助のために、医師が致死薬を注射する事は自殺の範疇に含めて良いのか、について検討。
  • 女性学では、「デートDV」と「キャンパス・セクハラ」について特集した。繰り返し強調したのは、受講生であるあなた方が「加害者」になる可能性はいくらでもあること。そして、もしそう思う気持ちが湧いたとしても、性犯罪の被害者を叱責してはならないということ。その事件の被害者に沈黙を強いるだけでなく、他の事件の被害者を黙らせ、加害者に言い訳を与え、犯罪予備軍を助長する。もちろん加害者をリンチして吊し上げろというのでもない。被害者を救済することを最優先する思想が普及していない日本で、受講した学生に何度も強調した。
  • 帰宅後、京都での学生による集団暴行事件の容疑者が全員釈放された、というニュースを見る。示談成立との事。不起訴の方向だという。加害者、被害者ともに学生であった事を考慮に入れれば、まわりの大人たち(大学側、弁護士、検察)が「収束」に動いた事は想像に難くない。関係者たちの難しい判断が働いたのだろう。裁判になった場合、被害者学生は大事な時期を棒に振って、自分の被害をしゃべり続けなければならない。全く二次被害だ。また、逮捕されたのが「学生」であったことも無関係ではないだろう。「社会人」だったら、こうはならないだろうと。刑事上の制裁が容疑者におよばなくなった以上、残されたのは大学側と当事者たちの「反省」の内容を検証することになるだろう。ただ、マスコミはそのような「反省」には関心が薄くなるだろうから、私たちが知る事ができない可能性がある。