(7/13)「社会的合意」への疑問とか、「性差量産」への批判とか

  • 生命倫理の最終日は、その日に参院本会議で採決が行われていた「改正臓器移植法」についてコメントした。
  • 先週は学生の多様な意見を引き出すために賛成、反対の両方の意見を紹介しただけだった。その結果、20名の受講生のうちで多数決を取れば「A案」であった。しかし、そのA案支持者の中も多種多様で、全面的に法案に賛成した者は全体の2割弱で、残りは「親族優先移植規定はおかしい」とか、「年齢制限撤廃は必要だと思うが、たとえ小さな子どもでも事前の提供意思を確認すべきではないか」とか、さまざまな「但し書き」が付いてきた。中には「脳死は人の死とするのはおかしい」と、修正案の立場に立つ学生もいたし、「すべての案が不十分」とする者もいた。たった20名の学生でこれだけの意見が出る。いったいどこに「脳死は人の死という社会的合意」があるのだろう、というのが正直な感想。せめて日本の81例の結果がどうなったかを(プライバシーに配慮しつつ)公開しても良かろうに。
  • 女性学の最終日は、「脳の性差」研究の歴史と現在について簡単な報告を学生に行った。
  • 脳の「男女」二項対比によって知性の「差異」の根拠としようとする学説の歴史は古い。脳の分析や心理学的な調査は格段に進歩しただろうが、時代は変わっても「脳の分析」を「心理学的調査」と研究者の作為的な結合によって、「男の脳は」「女の脳は」などと称して各三十数億人を十把(三十数億把?)一絡げに分類してしまう「研究」は後を絶たない。
  • 数年前のある研究書に目を通していると、研究書であるはずのその本がやたらとカジュアルな装丁であることが気になった。この種の本は(特に日本では)流行るからこそ次々と翻訳されているのではないかという気がしてきた。
  • 脳内の分析で発見された「差異」がどんなに些細であっても、研究者にとってそれはもう「鉱脈」を発見したようなものかもしれない。その差異を極大化し、普遍化し、はるかに大きいはずの個人差を軽々と超越して「パターン化」してみせる。その本はたちまち注目され、日本語になる。それを真に受けて、幼少期から「男の子はこう育てれば伸びる」などという内容を実践する親がいるとすれば、もはや立派に「実害」が発生していると言える。
  • まさに「他山の石」。自戒を込めて、今日の授業の内容を文章化していきたいと思う。